· 

裁き、赦す主

創世記215183824、ヨハネ64751「裁き、赦す主」

2020830日 左近深恵子

  創世記の12章によると、神さまはエデンの園という住まいを人間に与えてくださいました。それは神さまがお造りになった世界の豊かさ、美しさを凝縮したようなところです。大地を地下から湧き出る水が十分に潤し、あらゆる種類の、目にも舌にも美味しい実のなる木が生え出で、園の中央の木を除いて、人はそれらの木からどれを取って食べても良いと言われています。日々様々な大地の恵みを味わう喜び、それによって心身の健やかさが支えられる喜びに満ちています。神さまは人に、その大地を耕し、守る特別な務めを委ねられました。大地もそこに生きるものたちも、お造りくださった神さまご自身がとても良いと喜ばれた、美しく素晴らしいものです。その神さまの御手の業を守るという務めは、お造りくださった神さまのご意志を日々の業で表すことができ、その業の実りを日々数えることができる、貴い働きです。造られたもの全てに貢献することのできる、喜び多い働きです。人には神さまから、互いが相手の助け手となることのできるパートナーも与えられています。輝くような全き喜びを享受していた園での日々は、人の命を願い、存在することへと招き出してくださった神さまの祝福の表れでありました。

 

しかし人は、たった一つであっても神さまから禁じられていることがあるということがひっかかります。制限なく全てを神と等しく手に入れたいという内側の欲望と相容れない神さまの言葉は、人にとって棘のような異物です。のどに刺さった棘を何とか取って吐き出そうとするように、人間はひっかかっている神さまの言葉を、自分の外へと追いやってすっきりしようともがきます。食べてはいけない木を神はなぜ自分たちの住まいである園の中に生やすのだ、自分が望むものを、制限を付けずに全て手に入れさせてくれるのが神というものではないのか、超えてはならない限界が自分たちにあるのは、神が自分たちのことを本当に思ってはいないからなのか、そのような疑問を抱きます。神さまへの信頼にしっかりと立っているならば、人は疑問を神さまにぶつけることができます。神に祈り、神が応えてくださることを願い求めます。けれど神さまへの信頼に立ちきれない人間は神さまに問うこともなく、疑問は疑いの度合いを増していきます。賢い蛇の言葉によって疑いを一層増した二人のように、自分の考えや欲望と呼応する言葉に引き付けられ、揺さぶられます。神は自分たちに不当に禁じているという自分たちの考えも、抗しがたいほど膨れた自分たちの欲望を満たすための行為も、蛇の言葉によって正当化し、神さまのご意志には背を向けます。人は神の像にかたどられて創造されたと創世記の第1章は記しています。神さまに対する背きは、この神の像を自ら破壊するものです。私たちの内側に神さまが形作り与えてくださった神さまの像を歪め、破壊してしまいます。それぞれ神の像にかたどられた者であり、互いの助け手でありながら、二人の内一人はすぐ傍にいながら相手の言葉を正そうとも、行為を止めようともせず、黙認します。もう一人は取った木の実を相手にも差し出します。相手も欲望を満たすためならば神さまの言葉を捨てると知っています。その通り相手は手を伸ばしてそれを受け取り、食べます。これが創世記に記されている最初の人間たちです。人間はその初めから、自分たちの欲望を満たすためなら神さまの言葉も蔑ろにしてしまい、神さまが創造において願われた関係に生きることができない者たちであったと、聖書は語っています。

 

神さまへの信頼に立っているならば、喜びに満ちた言葉だけでなく納得のいかない言葉も心に留めることができ、与えられている豊かな恵みに目を向けることができます。神さまの言葉に信頼しきれないと、ひっかかりを覚えたり、不快に感じたりする神さまの言葉を抱え続けられなくなります。ヨハネによる福音書の第5章に、大人の男性だけでも5,000人という大勢の人々の空腹を、主イエスがパンと魚で満たされた出来事が語られています。それ以来多くの人が一層主イエスを求めるようになり、弟子となって主が行くところどこでも付いていこうとしました。この方について行けば二度と飢えることが無い、自分たちの命は守られると期待したのでしょう。その人々に主イエスは幾度も言われます、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」「私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。しかし人々は、期待していた肉体の命のことだけでなく、肉体の命で終わらない、霊によって与えられる命について語る主イエスの言葉を受け入れられず、不信感を抱き、多くの弟子が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って主イエスのもとを離れ去り、もはや主イエスと共に歩まなくなったのでした。

 

去ってゆく弟子たちを見つめながら主イエスは12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。するとシモン・ペトロは弟子たちを代表し、「主よ、私たちは誰の所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と答えます。主イエスの言葉も主イエスがどのような方であるのかもまだまだ理解しきれず、隅々まで納得もできていない、それでも主イエスが神さまのみ心を誰よりも明らかに示しておられることを信じ、その主が語られる永遠の命についての言葉を信じると答えます。自分たちの命は神さまから与えられ、神さまにお委ねするものであると、死を越えてお委ねできるのだという信頼の上に立っているから、12弟子はこの時、大勢の人々と共に去ろうとはしませんでした。ここまで知っていて、言葉にして告白することのできたこの弟子たちでさえも、主イエスが捕らえられ、鞭うたれ、大勢の人に罵声を浴びせられながら十字架に至る道を歩む主イエスが、永遠の命の言葉を持っておられる神の聖者であることに、信頼しきれなくなります。ぺトロは主を知らないと三度裏切ってしまいます。これが、主イエスの最も近くにいた弟子たちの現実の姿であり、私たちも抱える現実です。この人間の現実が、エデンの園の二人と重なります。

 

二人は「食べると必ず死んでしまうから決して食べてはならない」と命じられた木の実を食べました。その後も二人の肉体の命の時間は暫くの間与えられています。しかし肉体は生きていても、神さまにかたどられた像を歪めてしまいました。息吹き込んで生きる者とされたのに、神さまの息を、み言葉を吸い込み、それらによって新たにされ、内側から発する言葉や行いによって神さまにお応えし、また神さまの息を吸い込む、その祝福された状態を失っています。神さまが自分の創造主であり、命の与え手であることも、神さまの息も、神さまの言葉も自分には必要ないと、それら無しに賢く生きて行けると退ける者は、本来の命を生きることができず、他者との関わりも歪めてしまうことを、創世記は示します。

 

二人が禁じられた木の実を食べた出来事を境に、これまでエデンの園の中で築かれてきたものが崩れ始めます。人の背きに対して、神さまは裁き主となられます。先ず蛇に対して裁きを告げられます。登場した時には「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い者」と、その抜きんでた賢さが紹介された蛇は、「あらゆる野の獣の中で呪われる者」とされます。そのことによって人間との関係も悪化します。

 

二人の人間の関係が背きにおいて歪んだものとなっていったことは既にふれました。念願の木の実を食べることができた二人ですが、互いに相手を信頼しきれなくなり、警戒し、無防備なままでは相手と共にいることができなくなります。神さまのみ前に出られない者となり、神さまに背きを問われると、自分の正しさを主張するためにパートナーや蛇に責任を転嫁します。神さまにさえ、その責任を負わせようとします。神さまがこれまで創造のみ業の中で整えてこられた秩序は次々と損なわれ、一つ一つの関係が崩れてゆきます。神さまはこの人間たちに裁きの言葉を継げます。産みの苦しみが増し、互いの一致は求め続けなければならない困難なものとなり、大地を耕し守る務めも多くの困難が伴うものとなる、と。産みの苦しみとは、妊娠、出産、子育ての全てに関わるととらえて良いのではないでしょうか。身ごもり、産み育てることも、二人の人間の互いの関わりも、大地を耕す営みも、どれも命に関わります。人間は、視野の向こうにいつか必ずもたらされる死の力を、生きている日々の間も感じながら、自分がそこから取られた大地を耕し、生きるためにもがくことになりました。それが、神さまが告げられた裁きです。

 

人間の背きがどれほど大きなダメージを与えるのか、神さまだけが見つめておられます。人と人の関わりも、他の被造物もどれだけ影響を受け、創造の秩序がどれほど崩されてしまうものであるのか、祝福された命が本来の在り方を失ってゆく様を見つめておられます。だから裁きを下されます。背きなど大したことではないかのようには軽く扱われるのではなく、背いた者たちにその罪を認めることを求めるのです。神さまは滅ぼすために、裁きを下されません。聖書は、裁き主なる神は、罪の赦しを求め、新たに生きる者となることを求められる方であることも語ります。寧ろ裁き以上に神さまの憐れみを語ります。裁きによって産みの苦しみは増しました。互いの一致は当たり前のことではなく、求め続けなければならない困難なものとなりました。それでもこの二人を、神さまはこれから生まれてくる子どもたちの親とされます。人をお造りになった時に神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と告げられました。世界をお造りになった神さまのみ心に即して世界を管理する特別な務めを人に委ね、そのような者として地に満ちることを望まれました。その人間が背いたことで、子を産み育てることにも、大地とそこに生きる者たちを守る務めに、多くの困難が伴うとの裁きをくだされました。他の生き物たちを守るために神さまが与えた特別な立場も、蛇との間では敵対するものとなったと告げられました。それでも、彼らに対して子を産み育て、大地とそこに生きるものを守る道を閉ざすことはされていません。神さまから与えられた命に生き、神さまのご意志にお応えする道を与えてくださるのです。

 

神さまは、裁きの中に込められている神さまのみ心を未だ受け止めきれていない二人を、エデンの園から追放し、他の地で大地を耕すものとされました。エデンの園での豊かな実りを享受する日々が、労苦多い生活へと一転しました。しかしそれは労働と疲弊の先に死んでゆくだけの道ではなく、神さまのみ心を見つめる目が養われ、神様への信頼があつくされ、罪を認め、神さまの赦しに新たに生き続けることへと導かれる道です。二人のために神さまがなしてくださったことに、私たちは驚きを覚えます。禁じられていた木の実を食べたことで、自分たちの弱さ無防備さに耐えられなくなり、イチジクの葉を綴り合せたもので身を包んでいた二人に、その脆い衣ではなく、神さまが仕立てた、丈夫で温かな皮の衣を着せてくださいました。この先の日々に必要な丈夫な衣と、神さまの赦しと憐れみで、包んでくださったのです。

 

 

 神さまは、ご自分に信頼しきれずに道を見失う私たちの罪を深く嘆き裁く方であります。二人を去らせなければならない神さまの嘆きは、どれほど深いことでしょうか。私たちが神さまに背を向け、自分の利益のために他者をも、神さまをも背く私たちに対する神さまの嘆きの深さが、み子の十字架に示されています。神さまは背く私たちと、裁きをもって関わることを止められてしまわれず、私たちを赦しへと導くための裁きを、み子の命の値をもって下されました。無防備な私たちを私たちには造り出すことのできない装備で装い守ってくださいます。私たちの背きから生じる敵意や無関心、責任の押し付け合いが、世界で猛威を振るっています。人の背きが茨やアザミのように茂る中を、神さまに従う道を進む私たちのために、み子は十字架で死んでくださいました。自らは不十分な装備しか用意できない私たち一人一人を贖いのみ業で包むために、み子の贖いという、私たちには造り出すことのできない衣で包んでくださっています。パウロはローマ書で、主イエス・キリストを身にまといなさいと記しています(1314)。ガラテヤ書では、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ていると記しています(ガラテヤ327)。またⅠコリント書では、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る時、死は勝利に呑み込まれたと書かれている言葉が実現すると述べています(Ⅰコリント1554)。キリストの贖いの御業を心から感謝し、祈りをささげます。