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驚くべきこと

 

ルカ51726「驚くべきこと」

 

2020621日 左近深恵子

 

 

 

 本当に具合が悪い時は、視界や記憶があやふやなものです。そのような状態を何とか脱した時に、自分が寝ていたのはこのような場所だったのかと、自分が寝ている病院のベッドをぐるりと囲むカーテンを眺めたことがある人は少なくないと思います。それまで自由に動き回ることができた自分の体に力が入らない、痛みが走る。それまで言いたいことを言葉で発することができていた自分が、話すこともままならない。急に世界が狭くなったように感じます。急に窓の外の世界が遠くなったように感じます。天井と、自分の顔を覗き込んでくれる誰かだけが自分に見える全てである、そのような時間を過ごしたことがある方も、今、そのような時間を過ごしている方も、おられることでしょう。かつてそのような日々を過ごし、召された大切な人を思い出す方も、おられるでしょう。多くの病も、新型コロナウイルスも、人が願う所に行き、自分の口で語り、したいことを行う自由を奪います。その人の日常生活の場を限定します。病は時に他者とのつながりも限定し、繋がることができる相手の範囲も狭めます。私たちの力と喜びの源であり、神さまとの交わりの時である礼拝に集うことも、病は困難にします。病がもたらす影響を、私たちはこの数か月、生活においても、他者との交わりにおいても、神さまとの交わりにおいても、痛みをもって感じてきました。だからこそ、隣人たちによって主イエスのもとに運ばれた中風の人に起きた出来事を伝える聖書の言葉が、私たちの現実の中で特別に重く響いてくるようです。

 

 

 

 癒しの出来事は聖書に多く記されていますが、その中でもこの出来事は際立っています。それが、三つの福音書がどれも、丁寧に、この出来事を記している理由の一つかもしれません。「中風の人」と訳されています言葉は、新しい翻訳では「体の麻痺した人」となっています。元の言葉は力の入らない状態を指しており、特に何が原因でそうなったのか記されていません。ヘブライ人への手紙で「萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい」(1212)と述べられている箇所の「弱くなった」と訳されている部分が同じ言葉です。今日の箇所の人は麻痺した部分が体のどこであるのか述べられていないので、身体全体に力が入らない状態だったのかもしれません。この麻痺した人を寝床ごと運んできた人たちがいました。マルコによる福音書はその人たちを4人と記しています。ベッドの四隅をそれぞれが支えながら、主イエスがおられる家に連れてきたのかもしれません。

 

 

 

 それは、主イエスがガリラヤの地域で、福音を宣べ伝える働きを始められた頃のある日のことでした。主イエスはその頃、安息日の会堂で、また人々の家や屋外でも、聖書を説き明かしておられました。主は、神さまのご支配がどのように人々に自由をもたらすのか示すために、人々を悪霊や病の支配から救い出すこともされました。人々は、主が語られる言葉に、他の指導者たちにはないただならぬ権威があることに驚き、人々を悪霊や病から救い出すお力に驚きました。こうして主イエスのうわさが広まっていきます。一層多くの人が、主イエスが語られる教えを聞きたいと、また自分や、自分の大切な人を癒やして欲しいと、主イエスのもとに集まってくるようになっていました。けれど今日の聖書の箇所は、これまでと異なる顔ぶれがその人々の中にいたことを浮かび上がらせています。ユダヤの民の指導者たちがそこにいました。

 

 

 

 律法を厳格に守ることを重んじるファリサイ派の人々や、律法の解釈を専門とする律法の教師たちから成るその指導者たちは、主イエスがその時おられたガリラヤ地方だけでなく、ユダヤ地方ムからも来ていました。エルサレムからまでも来ていたのは、主イエスの活動を指導者たちがそれだけ注視していた現われでしょう。彼らはおそらく、人々の間で日増しに評判が高くなってゆくイエスという人物の活動を調べに来たのでしょう。この日主イエスを囲んでいたのは、語られる教えに熱心に耳を傾け、行われる癒しを喜びと驚きの眼差しで見つめる人々だけでなく、間違ったことが語られてはいないだろうか、怪しいことがなされてはいないだろうかと厳しい視線を向ける指導者たちも居たのでした。

 

 

 

突然その人々の頭上で何やら音がし始め、土だのほこりだの降ってきたかと思ったら、天井に穴が開き、その穴が大きくなり、寝床に載せられた人が吊り降ろされてきます。誰もが呆気にとられたことでしょう。暴挙ともいえる行動に出たのは、麻痺した人を寝床ごとこの家に連れてきた人たちでした。家の外階段から屋根へと上がり、瓦をはがしたようです。家の中があまりに人で溢れていて、寝床を主イエスの前に運ぶために、他に方法が思いつかなかったのでしょう。

 

 

 

彼らの目的は、病人を「イエスの前に置」くことでした(18節)。そのゴールに到達できる手だてが上から降ろす以外に無いならば、それをするしかないと考えたのでしょう。家の中の人たちが帰るまで待つことも、後日また改めて来ることも、この人たちはしません。この機会を逃したら、次があるかどうか分からないと思ったのかもしれません。屋根の瓦をはがせばこの家の人たちに大変な迷惑がかかることは当然分かっていたでしょう。しかしそれは、諦める理由にはならなかった。屋根は後で自分たちでも修理することができるけれど、この病人を救うことができるのは主イエスだけだと思ったのかもしれません。この人たちにとって、この人を主イエスの前に置くことは、不要不急のことではなく、今、しなければならないことでした。それだけ主のお力に信頼していたのでしょう。それだけ主イエスに会わせないまま終わってしまうことを、真剣に恐れたのでしょう。この人たちは皆、思いを一つにして、黙々と前進し続けました。屋根の上へと寝床を運ぶことも、屋根の瓦を剥がすという大胆な決断も、屋根の上から寝床の四隅に結び付けた紐を、床が傾いて病人が落ちることが無いように少しずつ繰り出す慎重さも、4人の息が合っていなければできないことでありました。主イエスのお力をこの人のこれからの人生の上にいただきたいという思いが、4人を協力して成し遂げる者としました。既にこの4人と病床にある人の間には結びつきがあったことでしょう。しかし4人はこの結びつきだけでは、病床のこの人を本当に救うことはできないことを知っていました。力の限界を、無力さを知っていました。そして主イエスのことを聞き、希望を見出しました。自力で主のみ前に行くことができず、自分の口で助けてくださいと主イエスを呼び止めることもできないこの人の代わりに、この人の手足となって行動し、主イエスの眼差しとお力の中にこの人を置くことが、本当にこの人に、今、必要なことなのだと、確信したのでしょう。

 

 

 

土埃が舞い、騒然とする家の中で、主イエスの前に病人が降ろされました。その時まで主がこの家でなさっていたのは、人々を癒すことでした。ですからそこに居た人々も、この出来事を聞く私たちも、病人を前にした主に期待するのは癒しではないでしょうか。けれど主の口から発せられたのは、「人よ、あなたの罪は赦された」との言葉でした。床の上で横たわる人の麻痺した体はそのまま、罪の赦しを宣言した主イエスに、癒しを期待した人々は拍子抜けしたかもしれません。指導者たちは、疑問を募らせます。罪を赦すことができるのは神さまだけであるのに、罪の赦しを宣言するこのイエスと言う者の真意はどこにあるのかと、あれこれ考え始めます。人間でありながら神のみができる罪の赦しを宣言するならば、神を冒涜していると。神のみ名を冒涜する者は石打の刑に処せられるとレビ記にあります(レビ241016)。主イエスの言葉は、死に値する罪ではないかと考え始めた指導者たちの内側を見つめながら、主は、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」というのと、どちらが易しいか、と彼らに尋ねます。癒しは、癒されたかどうか目に見えますが、罪の赦しは外からは分からないので、主イエスにとって癒しを宣言する方が容易いのです。主イエスには、癒す奇跡の力よりもはるかに高みにある、罪を赦す権威があります。当時癒しを行う者は他にもいたと言われています。癒しだけを行うのならば主イエスもそのような奇跡行為者の一人となりますが、他の奇跡を起こす力を誇る者たちのところに行っても、罪の赦しを得ることはできません。神である主イエスには、地上で罪を赦す権威があります。主がなさる癒しは、罪の支配から解き放つ権威において、人々を病と死の支配から解き放つ御業でした。たとえ人が望むような癒しを主から与えられなくても、主につながっている限り、その人の罪を赦す権威を持つ方のお力の中にあります。この日主は、この人に代わって、この人の救いを心から望む人々の信仰をご覧になり、この人に罪の赦しを宣言されました。そしてご自分が罪を赦す権威において癒しをなさっていることを人々に知らせるために、この人を癒やされました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」との主の言葉通り、この人は起き上がり、床を担いで、神さまを賛美しながら家に帰っていきます。それを見た人々は皆大変驚き、人々も神さまを賛美し始めます。そして恐れに打たれた人々は、「今日、驚くべきことを見た」と言ったとあります。

 

 

 

ルカによる福音書において、この箇所で主イエスは初めて「信仰」という言葉を口にされ、罪の赦しを宣言され、そのことを示すために癒しをなさっています。この出来事によって、指導者たちの主イエスに対する警戒は一層強まりました。もし主イエスがただ病人を癒やす活動だけを続けておられたら、人々は一層喜こび、指導者たちも主イエスをそれほど危険視はしなかったでしょう。指導者たちの前での罪の赦しの宣言は、ご自分の上に死を招くことにつながっていきます。それでも主は、罪を赦す権威を持っておられることを、指導者たちにも、人々にも、私たちにも、告げておられます。正直、罪の赦しよりも、癒しが必要なのだと、ただ癒すことを続けて欲しいと、私たちは思いがちです。なぜご自分に死を招くようなことを言われるのかと、癒される順番を待っていた人々も思ったかもしれません。そのような私たちを根幹から救うために、神さまの赦しと祝福を与えるために、罪の力に親しみを覚え、魂が麻痺してしまい、自らは救われることを願うことすらできなくなってしまっている一人一人のために、主は世に来られました。今日の個所の終わりで人々は「驚くべきことを見た」と言っています。「驚くべきこと」と訳された言葉には他に「奇怪なこと、聴いたことの無いこと、信じがたいこと」といった意味があります。自分たちの期待や想定を超えた出来事を見た驚きに、打たれています。主がなさったことが、彼らの要望の枠を超えた、天からの御業であったからです。

 

 

 

 主イエスによって私たちに与えられているのは、魂の癒しです。罪によって魂が麻痺し、頑なになっている私たちを、主イエスは赦すと宣言されました。たとえ病の中に置かれても、世界もつながりも狭められたように思っても、主イエスによって繋がり合う交わりを、誰も断ち切ることができません。誰も損なうことのできない天からの平安が相手にあることを、私たちは信じることができます。麻痺した人の救いを我がことのように願い、主イエスが天と地を結ぶ方であることに信頼する者たちの信仰によって、自ら主イエスのみ前に歩いてゆくことも、自ら自分の罪を口で告白し、罪の赦しを求めることもできないこの人に、主イエスは何よりも罪の赦しを与えてくださいました。人の常識を超えた驚くべきこと、奇怪なこと、聴いたことの無いこと不思議なこと、信じがたいことが、キリストによってもたらされたのです。

 

 

 

今日はこの後洗礼式が行われます。一人の方に驚くべきことがもたらされたことを、私たちが共にお祝いすることのできる時です。先立って主の平安をいただいている私たちが、自分にもたらされた驚くべきことを思い起こす時でもあります。麻痺した人を、天井を破って主のみ前へと運んだ者たちの行動が実を結ぶことができたのは、主イエスが天を破り、地上へと降られ、罪の支配も死の支配も破られたからです。この主イエスの死と復活の命に与る道が私たちに与えられています。私たち一人一人が今こうして主のみ前にあることの背後に、どれほど多くの祈りと行動があったことでしょう。私たちは、誰のために祈り行動することができるでしょうか。私たちの祈りと行動の活力は、希望と信仰です。主がその祈りと行動を喜んでくださいます。主イエスを信じて洗礼を受ける者は、復活の主の命を与えられ、驚くべき新しい現実を生き始めます。私たちの祈りと行動の実を結んでくださるのは主であるとの確かな希望において、互いに祈り合い、互いのために行動する群れでありたいと願います。