· 

まだ信じないのか

 

2020.4.26.主日礼拝

 

創世記1:1-5、マルコ4:35-41

 

「まだ信じないのか」 浅原一泰

 

 

 

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

 

 

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。他の舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

 

 

 

 

緊急事態宣言が出されてから間もなく三週間が経とうとしている今、世界の情勢はいよいよ深刻さを増すばかりで、事態が決して良くなっているとは思えない。この世は来る日も来る日も、感染者の数、死亡者の数、医療現場の混乱と危機といったニュースに振り回され、政治家であろうが医者であろうがコメンテーターであろうが誰もが口を揃えて言うのは、とにかく外出を避けることによってウィルスを封じ込めるしかない、その一点張りである。この世の只中にある多くの教会も礼拝を閉ざしているが、そうならざるを得ない背景には、既に海外の教会では礼拝中にウィルスが蔓延して感染者が続出し、死者も出たという現実がある。従ってこの美竹教会も、通常の礼拝を行うことは賢明ではないと判断し、本当にごく僅かの方を除いては自宅で主の日を迎えていただいている。ただ教会は、勿論この世の只中に置かれていることは否定できないけれども、また時としてこの世に流されてしまう弱さ脆さがあることも否定できないけれども、しかしその一方で教会は、まさに世の為に主がお建てになった、という神の業をも決して否定することは出来ないだろう。神を知らない世の多くの人々、神に背いたままの人々に、御子イエス・キリストの贖いの死をもって神がこの世の全ての人間と和解された、全ての者の罪を赦された、そのことを世に証しさせる為に神が教会を建てられている、という、そこにこそ神の御心があるのだ、ということをこのような非常事態においても、いやまさにこのような試練の時であるならば尚更のこと、決して忘れてはならないだろう。

 

 

 

先ほどのマルコ福音書の中でイエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられていた。このイエスの呼びかけは、弟子たちにとっては何も難しいことではなかったと思う。弟子たちの多くは漁師であったことから、彼らが舟を出すことなど極めて日常的な、朝飯前のことだったに違いない。世の人々が朝起きて、着替えて仕事や学校に行くとか、クリスチャンが日曜に礼拝に行くのと似たような、ごく当たり前のことであっただろう。しかしその直後に、弟子たちが予想だにしていなかったことが起こる。舟は激しい嵐に襲われ、波をかぶり、沈没しそうになるわけである。いくら舟の扱いに慣れている漁師であっても、そのような暴風雨に直面したら、まして舟が沈没するような危機に見舞われたら、彼らの技術も経験も何の役にも立たない。今の人類が、ワクチンのない新型コロナウィルスに立ち向かうべき知恵も力も持っていないのと同じである。弟子たちは自分たちの身に死の危険が押し寄せているのを感じて、ただうろたえるしかなかった。怯えるしかなかった。しかしそのような危機的状況の只中で、イエスは何と眠っていたという。平然と艫の方で枕をして眠っていたという。「わたしたちがおぼれてもあなたは平気なのですか」と弟子たちが思わずイエスを起こして訴えたくなったのは、無理のないことであったかもしれない。神様が人間を愛しているというのなら、なぜコロナから人間を救ってくれないのか。神ともあろう方が、人間を死なせて平気でいるなどということがどうして出来るのか。彼ら弟子たちの姿は、そのような世の人々の叫びに似ていたかもしれない。来る日も来る日もコロナウィルスから身を守りたい一心で必死になっている多くの世の人々、もしかしたら集中治療室で呼吸困難となり、苦しみ喘いでおられる患者の方々の姿に近いものであったかもしれない。

 

 

 

しかしイエスは舟の中にいなかったわけではない。死に直面して怯えている弟子たちと共にいなかったわけではない。イエスはそこにいたのである。嵐に見舞われ、手も足も出せない無力な、ただ怯えて、うろたえることしか出来ない、そのような彼らと共に、彼らの傍らに確かにイエスはいたのである。人間を恐怖へと誘う力、死を恐れさせ、自分の身を守ることしか考えられなくさせる力、それは悪霊の力であると聖書は教えている。その力は自分の身の安全が第一と思い込ませ、他者のことは二の次と切り捨てさせていく働きを持っている。その力が、あのアダムに、死なないなら食べても良いのではないか、自分の命さえ助かるのならたとえ妻であろうとあのエバにその責任を擦り付けたってかまわないではないか、と思わせていった罪の力なのである。実はこの時、沈みそうになっている舟の中で、弟子たちの誰もがその力に操られてしまっていた。その力に支配されてしまっていた。神との約束を破って自分勝手な判断で生きようとしたアダムのように、弟子たちの誰もがこの時、神の力によって生かされていることを忘れてしまっていた、そう思わされるわけである。そして、そのような弟子たちとは対照的にイエスが眠っていたというのは、イエスだけは悪霊でさえも唆すことが出来なかった、何があろうと、風が吹こうが嵐が来ようが自分が神の力によって生かされていることを確信していたのはこの時、イエスしかいなかったということを物語っているのではないか、と思わされて来るのである。

 

 

 

その後イエスは起き上がって、海に向かって「黙れ、静まれ」と言われたとマルコは伝えている。すると嵐は静まり、凪になったと伝えている。それだけではない。イエスは弟子たちに向かって、「なぜ恐がるのか、まだ信じないのか」と彼ら一人一人を問い詰められるのである。彼らの信仰が薄いことを指摘し、その上で彼らを責められるのである。しかしイエスは彼らを決して罵倒したわけではない。責めて責めて責め抜いて彼らを立ち上がれなくさせようとしたわけではない。そのイエスの言葉は、乾いた地に雨を降らせるように、また闇に覆われていた場所を光で照らし始めるように、信仰の薄かった彼らを生まれ変わらせたいという、彼ら一人一人に向けられた慈しみに満ち溢れた呼びかけであったのである。イエスを通して、彼らをなおいっそう強く信じさせようと導くそれは神の御業に他ならなかったのである。そしてそれは、身の安全という、現状が維持されさえすれば構わないと思い込みがちな弟子たちの眠った目を目覚めさせるイエスの言葉であり、自分自身が何によって生かされているのかを考えもしないで、ただ自分さえ無事ならいいという考え方に逃げ込みがちなクリスチャンに居住まいを正させ、奮い立たせる神の業に他ならなかったのではないか、そう思えてならないのである。そしてその時、そこにも、誰もが神を忘れ、自己満足を求め、苦しみ喘いでいる隣人に手を差し伸べようともしない、秩序のないまさしく混沌たる世界に向けて「光あれ」と声を発せられ、闇を光で照らした神の創造の業が新たに繰り返されていたのだと、そう思われてならないのである。

 

 

 

今、世界は嵐ならぬ、目に見えないウィルスに襲われているのかもしれない。誰もがそのウィルスを恐れ、怯えていると言えるのかもしれない。私にもそれがあるし、世の教会に連なる多くの人間にも同じ思いがあるだろう。しかしそれよりも忘れてはならないことは、それ以上にこの世は、やはり目には見えない復活の主によって、主イエスを死からよみがえらせた神によって導かれている、世にある者すべてが、誰もが神から愛されている、ということなのではないだろうか。イエスが、イエスを通して神が、世にある我らと共におられる、ということなのではないだろうか。イエスはすべての者に先立って、ウィルスによる死をも受け止めておられる、その上で死に打ち勝っておられる、我々はそのイエスによって生かされている、ということなのではないだろうか。イエスが傍らにおられる限り、舟は決して沈まない。神が共におられる限り、世は決して滅びない。「黙れ、静まれ」と叫んで嵐を凪に、死を命に、闇を光に変えて下さるイエスを、神を信じて今この時を、希望をもって耐える、ということこそ、先に信仰を与えられている我々キリスト者が忘れてはならないことなのではないだろうか。三つの密を避けなければならないこの時に、礼拝に集まることは現実的ではないし、懸命な判断ではない。しかしそれでもキリスト者として我らは、信仰を改めて主の日毎に主イエスによって与えられ、強められている、このような試練の時であるからこそ主の日毎に「まだ信じないのか」、そう言ってイエスは我々を叱咤激励して下さっている、そのイエスの恵み、この神の愛を世に証しする者でありたいと心から願う。