· 

イースターの朝

 

イースターを告げるメッセージを、言葉を、教会は託されています。だから、このような中で、このような時にこそ、新型コロナウィルスが、数えきれない尊い命を奪い続ける今、見えない死の恐怖を蔓延させている今、だれが感染しているかわからない、互いを疑心暗鬼に陥れてゆく今、とげとげしい言葉と態度で亀裂を深めさせる今、膨れ上がる不安に怯えさせられる今こそ、生命の言葉を託されている教会は語り続けます。

混沌を裂くみ言葉を託されて語ります。イエスキリストは、復活されたのだ、と。私たちの健やかなるときも病む時も、生きる時も、たとえ死ぬるときも、真の慰め主なのだ、と。死が私たちの愛おしい、すべてを奪うがままにしておかれない、私たちの心も体も魂も意のままに捻じ伏せるままにしておかれない。恐怖と不安の縄目である死を絞め殺し、死の宿る墓を空しくして、復活されたのだ、と。私たちは、その復活の主の生命の約束を与えられている。その生命に連ねられているのだ、と。

 

 3月以来、私たちは一つの場所で、隣にいつもいる方の賛美の声を聴きながら礼拝をささげることができなくなりました。祈れない友の傍らで代わりに祈る時を共にできなくなりました。柔和で温かい言葉でささくれ立った心を潤し慰める信仰の友の横顔を見ることもできなくなりました。膝つきあわせるようにしてテーブル囲んで聖書の学びに心躍らせて祈りあうことも、別れ際に2メートルの距離などまったく気にせずに玄関から送り出すことも、なくなりました。萎えそうになる信仰を、傷ついた魂を互いに励ましあう交わりも遠ざけられました。そして何よりも魂が血を流すほどに切なくうめくのは、教会が教会であることの基であり柱であり、源である、聖餐の食卓を、皆で共に囲んで、世々(代々)の聖徒と共に、主を思い起こしながら、パンと杯を、その手に取り、味わい、キリストの恵みを身をもって噛みしめることができなくなっていることです。最も必要な時に、最も必要は交わりが断たれる。キリストの体なる教会に連なる枝枝が、あたかもその幹から断ち切られるような痛みにのたうつ思いに日々蝕まれます。魂が次第に干からびて行くような渇きを覚えながら、イースターを迎えています。

 

 

 

 このような時だからこそ、私たちの命の源、原点に立ち返りましょう。イースターの朝、復活されたイエスキリストに出会った一人の女性の証言を聞いてまいります。キリスト教は、この婦人の証言を2000年にわたって聞き続け、自ら味わったこととして追体験しながら、幾多の危機を、戦乱や疫病、災害や迫害の中を生きのびつつ語り継いできました。今日、私たちも聞き、味わい、語ります。この女性は、日曜日の朝早く、東雲の時分、墓へと向かう。あの金曜日の黄昏に、イエスキリストの葬られた墓へと東の空白むころ、急ぎ向かう。ところが墓石が取り除けてあるのを見る。急ぎペトロやもう一人の弟子のところへと向かい、誰かが主イエスの遺体を取り去って、どこに置いたかわからない、と知らせた、と。2人の弟子たちは息せき切って駆け付けて空になった墓に相次いで入って、マグダラのマリアの知らせたことが本当だったことのみ確かめて、復活を証しする聖書の言葉を理解できぬまま、空っぽのまま家に帰っていった。

 

マリアはひとり墓の外で立って泣いていたんだ、と。何が起こったのか、常識で考えれば、墓が荒らされた、遺体が取り去られてしまったと。死んでなお、ここまでいたぶられるのか、親しかったものが、その遺体に触れることさえできない、せめて思い出のよすがに縋りついて泣くことさえ許されない。奪いに奪い尽くされて、ただもう絶望と哀しみに押しつぶされて墓の中を覗き込む。

 

 今はもはや抱きしめられない抜け殻のように何も残されていない、そこにあったはずの主の御体のあたり、頭と足のあたりに天の使いが見える。さらに「なぜ、泣いているのか?」との言葉がこだまする。この問いは言外に「もう泣かなくてよいのだよ」という響きがあるのです。天使は知っているのですから。もう涙に暮れなくていいことを。けれどもその響きは今のマリアの心に届かない。「なぜ?」との問いに、ひたすら確信していることをもって応える。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、わかりません」。骸となった主の体が惨くも取り去られた。どこに置かれてしまったのかわからない、もう縋りついて抱きしめることもできない私の主の亡骸。だから泣いているのだ、と。

 

 こう言って後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。けれどもそれがイエスだとは分からなかった。本当は見たかったものを見ているのに、取り去られたと固く信じて疑わない主イエスの遺体を探すまなざしには、それがそれと映らない。イエスの問いかけがその凍てついた魂を少しづつ解き放つのです。「なぜ泣いているのか?」墓の中にこだました問いと同じ。「もう泣かなくてよい」。そしてさらに「誰を探しているのか?」。ヨハネ福音書を読んできた人たちは、この問いが、かつてこの福音書の冒頭で最初の弟子たちを招かれた言葉「何を探し求めているのか?」と響きあっていることに、はっとさせられるのです。あの時の弟子たちも探し物が何か、本当に求めるべきものが分かっていなかった。けれどもイエスキリストに招かれて、「ラビ(先生)」と呼んで、従う内に、次第に本当に探していたものに気づかされていったのです。

 

マグダラのマリアも招かれているのです。「誰を探しているのか?」。本当に探している方へと招く問いでした。ただマリアの心はここにあらず、園の番人だと思い込んで「あなたがあの方を運び去ったのならば、どこに置いたのか、  どうぞおっしゃってください。わたしがあの方を引き取ります」と主イエスの「遺体」にこだわって、あらぬ答えに留まるのです。そう、これまでもピントの外れた答に、とことん付き合いつづけて、問答を繰り返しながら、初めは思いもしなかった喜びの地平へと共に至るまで、導いてくださる主イエスと出会った人たちがいました。例えば、真昼間のサマリアの井戸端で出会って、最初は明らかに迷惑そうに、嫌々受け答えしていたのが、言葉を交わし問いに応えるうちに、間合いが詰まってゆき、話している相手を「主」と呼び、「預言者」と認め、ついには、救い主であることを信じて、それまで自他ともに日陰者として後ろ指刺されながら人目を避けて生きていたものが、堂々と町の人たちを主イエスへと招くものへと変えられていったサマリアの女性がいました。

 

イースターの朝、マリアとのやりとりにも最後まで伴いゆかれます。哀しみに暮れて、呼んでももう応えない遺体を抱きしめようと探し求めているマリアの名を呼ばれる。「マリア」と。園の番人だと思っていたマリアの目が覚めるのです。死の淵から呼び出す命への呼びかけでした。羊は、命を賭してでも守る真の羊飼いの声を知っている。「マリアよ」。ああ、「ラボニー」、ずっとそう呼んできた答えが引き出される。「わたしのラビ、先生」と。金曜日の十字架の前に交わしていた「マリアよ」との呼びかけと、「はい、ラボニー」との答えが、今、イースターの復活の朝日の中で、改めて「マリア」「わたしのラビ、先生」と、空の墓に、命の夜明けに響きあう。十字架の前と復活の後をつなぐ主の呼びかけでした。主イエスはここで、マリアに私にすがりついてはいけない、とおっしゃる。それは辛いことです。復活の主に触れて確かめたい思いは、人一倍マリアは強かったでしょう。この後、23節以下で、その手に十字架のくぎ跡を見て、そこに指を入れ、脇腹に手を差し入れなければ絶対に復活など信じないと言い張っていたトマスには、その手とわきを差し出されて触れさせようとされたのとは異なっています。トマスがこの復活の主を前にして、ああ、わたしの主、わたしの神、と信じたとき、主イエスは「見たから信じたのか、見ないで信じる人は、幸いだよね」とおっしゃった。トマスは見ることにこだわって頑なに闇に自らとどまっていたのです。見ないで信じる信仰へと招くために、トマスにはトマスとの出会い方をされた。主を抱きしめ縋りつくことにこだわってまなざし曇らせていたマリアには、「マリア」との呼びかけて復活を告げられました。マリアにはマリアとの出会い方をしてくださった。触れずして信じる幸いへと招かれたのだと。

 

今年、わたしたちは互いに触れること、近づくことを避けざるをえません。主の晩餐のテーブルも、実際にパンと杯を手にして、口にすることができません。礼拝もそれぞれの家で離れてささげています。主は、知っておられる。私たち一人一人に、今年、相応しく出会ってくださる。主は呼び掛けておられる。おひとりおひとりの名を呼んで。わたしたち主の御体なる教会に連なる者たちを、触れずして信じるものは幸いだ、と招いておられることを、今までなかったほどに味わうものとされています。「誰が、キリストのこの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、ほかのどんな被造物も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35以下)。世界を基から揺るがし蝕む死が猛威を振るう中にあって、イースターの主、死による終わりに終止符打って、引導渡して死を捻じ伏せて復活されたイエスキリストにある神の愛から引き離すことはできない。健やかなる時も、病むときも、生きる時も、そしてたとえ死ぬる時も。何ものも私たちをこのキリストの愛から引き離すことはできない!

 

 

 

祈ります。

 

 

 

混沌を裂いて光を創造し、死を裂いて命の勝利を顕され、見ずして触れずしてなお、イエスキリストこそ私の主と告白させる、父、子、聖霊なる神さま、新型コロナウィルスの蔓延によって、交わりもみ言葉の食卓も、これまでとは全く異なった礼拝を余儀無くされています。ただ預言者たちを通して「見よ、私は新しいことを行う、今や、それは起ころうとしている」と告げられたことを聞いています。そして聖書に刻まれているように「今のこの時の苦しみは、将来私たちにあらわされるはずの栄光に比べれば取るに足りません」「被造物自体も滅びの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入る希望」をもって共に呻き、共に産みの苦しみを味わいながら、待ち望むものとされていることを確信しながら歩んでいます。どうぞ今日、このイースターに、み言葉を通して見せてくださる復活の主の御姿を仰ぐまなざしを澄んだものとし、与えられている歩みを導いて、栄光のみ姿を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、御子と同じ姿へと日々造りかえて、御前に立つその日まで、あなたの恵みを身をもって証するものとさせてください。このとき、それぞれの家庭で礼拝を守るお一人お一人が、み言葉の糧によって癒され慰められ力づけられますように。ご家族が祝福されますように。