過去の説教

過去の説教 · 2025/06/09
「シャローム」。主にある平和がありますように。それは誰が聞いても悪い気はしない、聞き心地の良い言葉かもしれない。教会はそういうところなのか、と思ってくれる人もあるかもしれない。それなら、友人知人を誘ってみよう、と思う人もあるかもしれない。しかしそれがただのきれいごとだとしたら。そのような言葉を語って表面だけを綺麗に着飾って見せているだけの場所が教会だとしたら。それは実に重い罪ではなのではないかと感じている。本当の平和とは何であるのか。それをもたらすのは誰であるのか。なぜそれが平和であるのか。そのことをはっきりと伝えることもしないで、人間の罪がどれほど重く根深く救いようのないものであるかを認めもしないで、ただキリストの十字架によって皆さんは赦されているのだからと言う一言で片づけているだけなら、先週の繰り返しになるが、そこには決して神の国は芽生えないだろう。
過去の説教 · 2025/05/26
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」これがこの地上における神の子イエスの宣教の第一声であった。ではイエスを世に遣わした神の第一声は何であったか。「光あれ」である。旧約創世記の第一章で、まだ地は混沌として闇が深淵の面にあった状態のこの世に向かって放たれたそれは神の第一声であった。この創世記の冒頭にある一連の言葉を祈りを深めつつ何度も読み重ねられて生まれた言葉。それが先ほど読まれたヨハネによる福音書の書き出しの言葉であったと言われている。
過去の説教 · 2025/05/19
第二の創造物語が描く始まりの状態は、荒涼とした砂漠、あるいは岩や石がゴロゴロとした荒地のようです。全てが乾ききって、生命を維持できる状態ではありません。第一の創造物語が描き出す情景とは対照的に思えますが、生きていくことができない危機的な状況ということでは同じだと言えるでしょう。第二の物語では、神さまの創造のみ業は、神さまが潤いを与えることから始まります。砂漠のように形が定まらない、あるいは岩のように固い地表が、湿った土へと変えられ、そうして生きることができる世界へと変えられたところに、神さまは人を創造されました。
過去の説教 · 2025/05/12
 闇から光を分け、水と水を分け、水から大地を分け、そうやって順に秩序立ててくださった世界を、神さまは生き物たちの住まいとしてくださいます。水中にも大空にも、生き物たちが創造されます。大地には、生き物たちをお造りになる前に、更に備えを為さいます。種をつける草と、種を結ぶ果樹を生やしてくださったので。それら草や木々の種や実や葉や茎は、後からもたらされる生き物たちの食糧となります。種や実によって植物は大地に増え続け、豊かに繁り、生き物たちを養い続けるものとなります。こうして住まいも生命を育んでゆくものも整えてくださった所に、家畜や這うもの、獣たちが創造されます。人の創造はそれからです。
過去の説教 · 2025/05/05
創造について語る創世記の冒頭の部分は、危機の中にある人々に対して書かれたのだと考えられています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」すると光があった」。最低限に絞られた簡潔な文の言葉一つ一つが、礼拝で聞く人々の心に響いて行ったことでしょう。危機の中で人は普段は考えずに済むようなことを考えないわけにゆかなくなります。この状況の中で自分は何を源とすべきなのか、この状況の終わりには何があるのか、自分たちは何を見つめてこの時を耐えるのか、今、神はこの時を共にしておられるのか、そのような自分の存在、自分の大切な人の存在の根源にあるものを考えずにはいられません。そのような人々のために紡がれた言葉は、時代を越えて、根源にあるものを問う一人一人の心に響き続けます。
過去の説教 · 2025/04/28
木彫りの獅子。クリスチャンにとってそれは、自分が長年イメージしてきたキリストかもしれない。常に自分に安らぎを与え、いつも自分を赦してくれるような、そんなキリストなのかもしれない。長い間何の疑いもなくそのキリストと戯れ、来る日も来る日も飽きずにその木彫りのキリストを大事にしている。クリスチャンにはそういうところがあるのかもしれない。しかしそれは本物の生きたキリストではない、としたらどうだろう。我々は本物の、生きたキリストをイメージ出来ない。キリストはこういう方だと決めつけることなど出来ない。欠けのある我々罪人の思惑なんかに押し込められるような存在ではないからだ。もし我々の思惑通りにキリストを描いたとしたら、それは本物のキリストではない。本物のキリストは、ただ神からの働きかけによってのみ、恵みによってのみ、本来ならば出会う値打ちもない我々罪人に出会って下さる。そういう存在であるからだ。
過去の説教 · 2025/04/21
私たちが思い描く喜びとは、どのようなものでしょうか。楽しくて嬉しくて気持ちが高揚してくる、わくわくするような喜びがあります。あるいは、あなたはそのままで良いのだと、よく頑張って来たねと何もかも肯定してくれる、居心地の良い温かさを感じさせてくれる喜びもあります。喜びとはそのようなものなのだと思い、喜びをその枠の中でばかり考えがちな耳に、十字架と復活の出来事は、すぐには喜びの調べを奏でません。
過去の説教 · 2025/04/15
ゴルゴタという所へ「向かわれた」とあるのは、ゴルゴタがエルサレムの都の外にあり、都を出てそちらに向かったということでありましょう。生きている人々のための都を出て、罪人たちを死に引き渡す処刑場へと、罪無き方が向かってゆきます。晩餐の席でペトロは、自分の足を主イエスが洗うことに対して、“そのようなことは私がするべきことで、先生であり、主であるあなたが私の為にすることではありません”と、止めようとしました。しかし、処刑場に向かう主イエスを止めようとする者は誰もいません。
過去の説教 · 2025/04/08
親しい人が亡くなると、その人の死の間際のことが強い印象を私たちにあたえます。その人のことを思う度に死の前のことが思い返されます。まして相手から、このことを覚えていて欲しいと言われたり、このことをして欲しいと言われたことは心に残り、託されたことについて考え続けるのではないでしょうか。主イエスも弟子たちの心に残り続け、託されたことを担ってゆくようになることを願って、十字架にお架かりになる前の晩に、死を前にしたこの時だからこそ、彼らに語り掛けられたことでしょう。
過去の説教 · 2025/03/31
ペトロは自分の弱さを認められなかったのに、主イエスはペトロの弱さをご存知でした。にもかかわらず、“私を知らないと繰り返すお前とはこれまでだ”と関係を切るのではなく、復活したらガリラヤへ先に行っていると言われました。ご自分から離れ、散り散りに去る者たちと、死を超えて共に居てくださる方であることを教えられました。

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