創世記の初めに有名な兄弟の話がある。カインとアベルの物語である。兄カインは弟アベルを殺してしまう。アベルが悪を働いたからではない。それは兄カインの弟に対する「妬み」故の行為であった。カインの捧げ物に対して神は目もくれず、アベルの捧げ物だけに目を止められたからである。この弟がいることで自分の立場は追い詰められ悪化の一途を辿るかもしれないことへの恐怖の余り、カインはあのような行為に走ってしまったのかもしれない。さすがに殺人まで犯そうとは思わないとしても、同じように誰かによって自分が追い詰められているように感じて、心の中でその相手に何らかの牙を向けてしまった経験をお持ちの方は結構いるのではないだろうか。カインはばれてしまったけれども、おそらく実際には人にばれないように今もなおカインと同じことをしている人間は少なくないのではないだろうか。
10もの災いをもたらすことなどせずとも、神さまがそうお決めになれば、イスラエルの民をエジプトからそのお力をもって直ぐに救い出すことがおできになったことでしょう。しかしそれではファラオもエジプトの民も、一過性のアクシデントに見舞われたように思って終わりだったのではないでしょうか。イスラエルの民がエジプトを出る理由は、自分たちの神、主にいけにえを献げるためだと、そうファラオに言うようにと、神さまはホレブの山でモーセにはっきりと告げておられます。
モーセは、エジプトから遥か遠いミデヤンで、イスラエルの民の一人としてでもなければ、神の民を苦しめるエジプト人の1人としてでもなく、寄留者としての日々を送っていました。かつてエジプトで、イスラエルの民の同胞であることも、自分が思う救いも正しさも退けられ、自分の存在と自分の行動の根幹にあると思って来たものが揺るがされたモーセは、そのようなことと向き合わずに済むミデヤンの地でどのような日々を送っていたのでしょうか。そのモーセにこの日、神さまが名前を呼んで、語り掛けてくださったのです。
ヨセフが宰相としてエジプトにどんなに大きな貢献をし、エジプトの国力を強めたのか、イスラエルの民がなぜエジプトで暮らすようになったのか知らない新しいファラオは、イスラエルの民の存在に脅威を感じ、彼らが増えないようにあらゆる重い重労働を課して生活を追いつめるようにエジプトの人々に命じます。
人から認められたい。人に必要とされたい。多少の個人差があるだろうが、そんな風に心の中で思わない人間はいないのではないかと思う。誰だって認めてもらいたい、必要とされたいからこそ自分を良く見せようとする。誰からも羨ましがられるような人間に自分はなれないと分かってはいても、せめて分かってくれる親しい人たちからはいつまでも認めてもらいたい、と誰もが心の中で思っている。
出産の時が来ると、先に生まれ出た子は皮膚が赤みを帯びていたので、その子は「赤い」色を意味するエサウと名付けられます。後から出て来た子の手はエサウの踵を掴んでいたので、踵(アーケーブ)を意味する「ヤコブ」と名付けられます。先行くエサウの踵を掴んで行かせまいと最後まで1番を狙う姿は、その後のヤコブの考え方をよく表しています。
2025/08/17
神さまから託された務めを担う中で成長していた多くの他の者たちと同様、ヤコブも、神さまに従うことにおいて成長してゆきます。今日の箇所はまだまだその途上にあることを示しています。
祝福を担うことを神さまから託されたイサクの歩みに一時も早く合流することが自分の取るべき道だと潔く決断したリベカは、見えないこの先を神さまに信頼してお委ねして、イサクとの結婚に踏み出しました。
けれどその後イサクとリベカの家庭には、子どもに恵まれない日々が長く続きます。子孫が増え、大きな民となって、祝福を他の民にもたらすという神さまから委ねられた使命を担うはずでありながら、次の世代が与えられない日々は、神さまの導きに信頼し、家族も故郷も後にして、未知の土地へと旅立ったリベカの熱意と覚悟を思うと、あまりにも酷に思えます。この年月は神さまへの信頼が揺さぶられる危機ともなり得たでしょう。
先ほどお聞きしました24:2~8には、アブラハムの言葉が記されています。これがアブラハムの言葉として伝えられている最後のものとなり、25章でその死と埋葬が述べられます。今日の箇所は、アブラハムの人生の締めくくりと言えます。
イエスはユダヤ人である。今読まれた聖書に出て来たステファノも、また、怒り狂ってステファノに石を投げつけ彼を殺した者達もユダヤ人である。それを見ていた証人たちが上着をある若者の足元に置いたと言われていたサウロ、後にパウロと呼び名が変わるこの若者も、全てがユダヤ人である。